介護マガジン

ケアの達人日記

2009/11/02 Vol.85 改修工事の前後で

老舗女将のホスピタリティ

私が住む界隈の飲食店で、最古参ぐらいになる老舗のお蕎麦屋さんがある。4階建ての自宅ビルの1階部分で営業しているその店は、手打ちの蕎麦やうどんの味の良さはもちろんのこと、お酒の種類が豊富で、それに合わせたつまみも多彩で、蕎麦好きな助手の玲さんと酒好きな私が一緒に行くにはうってつけの店になっている。何よりも、旦那さんと2人で家族とバイトによる7、8人の従業員をたばねて店を切り盛りしている女将さんの人柄が良く、毎回、笑顔で車イスでも入りやすい席に案内してくれたり、生ビールにストローを付けてくれるなどの自然な気配りが心地良い。私たち以外にも、女将さんが顔なじみのお客さんに対して“的確なホスピタリティ”をみせる場面とたびたび遭遇する。たとえば1人で来店していた初老の男性が食事を食べ終わったころ、女将さんが見計らったように歩み寄って「お水をお持ちしましょうか?」と声をかけたことがあった。「ハイ、お願いします」と会釈を返した男性は、女将さんが持ってきた水で何種類かの薬を飲んでいた。その男性が毎回、食後に薬を服用することを顧客情報として頭にインプットしていたからこその自然な気配りだった。
また別の日、私たちの隣の席に孫らしい若い女性に付き添われ、かなりの年のおばあさんが座った時のこと。若い女性がおばあさんにメニューを開いて「どれにする?」と尋ねても、おばあさんは迷っているのか、老眼でメニューの字が読めないのか、はたまた認知症のためなのか、何度も「ウーン」とうなるだけでなかなか注文を言い出せなかった。それが10分近くつづき、若い女性が対処に困っていると、女将さんがすかさずおばあさんに近づいて「いつも、親子丼を半盛りで食べているのよね。今日もそれでいいかしら?」と優しく語りかけた。すると、おばあさんも我が意を得たりといわんばかりに「そうそう、それでお願いします」と声を高くした。そこでも女将さんはおばあさんがなかなか注文を決められない事情と、その中でもたいてい好んで口にしているメニューを頭にインプットしていたからこそ、機転を利かせた助け船を出せたのだろう。横目に聞き耳を立てて、その状況を把握した私自身、思わず「スゴイなぁ…」とうなった。実際、女将さんの言動を身近で見聞きしている他の従業員たちにもおのずと同じようなホスピタリティが浸透し、店全体のイメージを優しいものにしている気がする。だからこそ、私たちが多い時には週に一度は足を運んでいるように、店内はたいてい老若男女を問わず、たくさんのリピーターで賑わっている。

「淋しい気もするわね」

数ヵ月前の土曜日、いつものように慣れ親しんだそんな店内に入ろうとすると、出入口の横に張られた張り紙が目に付いた。そこには「改修工事のため、1ヵ月ほどお休みさせていただきます」との旨が書かれ、工事の開始日は2日後の月曜日からだとあった。それを見て私がとっさに「来週から改修工事だってよ!」と驚いた声を上げると、玲さんも「全然、知らなかったよ。(改修前に)今日来て、良かったね」と声を高くした。そのまま店内に入ると、改修工事を目前にしていたためか、いつもに増しての混雑で、車イスで入りやすい席はどこも空いていなかった。その状況にいち早く気づいた女将さんはこちらに近付き、相変わらずの笑顔で「空くまで、ちょっと待ってもらってもいいかしら?」と言った。玲さんと2人して「もちろんです」と会釈を返し、レジの横にある待合席で待機することに。その付近にも改修工事を知らせる張り紙があり、会計の際に初めてそれを見た常連客であろう年配女性は「あら、来週から1ヵ月も改修工事なんですね。きれいに新しくなるのは嬉しいけど、長いこと見慣れていた店内が変わっちゃうと思うと、少し淋しい気もするわね」。彼女の言葉に辺りを見回すと、私たちの真正面の席には趣がある囲炉裏があり、その他の店内も木の素材を活かした昔風の造りで、奥には畳の座敷席。そんな風景は、女将さんのホスピタリティとも相まって温かい雰囲気を醸し出していただけに、私自身「今日で見納めか」と思うと、彼女が言った通り確かに淋しい気もした。

期待が走る改修工事

一方で、1ヵ月に及ぶ改修工事はかなり大がかりなものだろう。加えてその期間中は当然、店は営業できず、売り上げもゼロになる。にも関わらず、工事ができるのは「普段からそうとう儲かっているんだね」と玲さんの耳元で言うと「そんなこと、大きな声で言わないでよ」と眉をひそめられた。こちらは小さくささやいたつもりでも、言語障害の影響で声のボリュームが上手く下げられず、第3者にも聞かれてしまうことがよくあるが、どうやらこの時もそんな状況だったらしい。それに気づいて、私は意識的に声を一段とひそめて「でも、これでトイレは入りやすくなるんじゃないかなぁ?」と投げかけると、玲さんも「それはそうなると良いね。車イスのお年寄りもよく来ているしねー」と微笑んだ。というのも、店内のトイレは以前に使っていた車イスではギリギリで中に入れ、尿瓶で用が足せたものの、2年ほど前から使い始めた今のドイツ製車イスは横幅が若干広いため、ギリギリで中に入り込めなくなってしまった。そうなると当然、店内ではトイレができなくなり、用を足したくなった時は自宅マンションまで我慢するか、歩いて5、6分の所にある最寄り駅の多目的トイレを借りるしかなかった。女将さんをはじめとする店員のホスピタリティがあふれていても、そうした状況ではつねにトイレの心配がつきまとい、その分、お酒と食事を落ち着いて楽しめない側面もあった。それだけに、今回の大がかりな改修工事でトイレが車イスでも使えるようになれば「もっと快適で、心地よい店になるだろう」と期待が走ったのである。

禁煙と喫煙の狭間で

待合席で15分近く待機すると、ようやく車イスで入りやすい席が空き、女将さんがまた笑顔で「お待たせして、すみませんでしたね」とその席へ案内してくれた。そこでしばし注文する品を考えた後で、再度、女将さんを呼んでそれを伝えた折、玲さんが「来週から改修工事が始まるんですね!今日、初めて知りました」。そう話を向けられた女将さんは、嬉しそうに「そうなんですよ。期間が1ヵ月近くでちょっと長くて、ご迷惑をおかけしてしまうんですけど、きれいになるので楽しみにしてください」と声を弾ませた。その直後に、私がトイレも改装されることへの期待を込めて「どうして工事をやることになったんですか?」と尋ねると、女将さんは少し声を小さくして「じつは最近、禁煙、喫煙の問題で文句を言われることがとても多くて、それで店内を全面改装して分煙コーナーを作る必要が出てきちゃってね…」。聞けば、近年の健康ブームの影響もあって、近くの席でタバコを吸っているだけで「どうして吸わせているんだ、こっちの身体に悪いじゃないか!」などと店側にクレームをつけてくるケースが増えてきているというのだ。そうしたトラブルが起きるたびに、店の雰囲気は悪くなったが、これまでは長い間、ことさらに喫煙を規制していなかった手前「常連のお客さんに、いきなり『タバコを吸わないでください』とはなかなか言えないんですよね」とのこと。それでも、あまりに強いクレームにバイト店員が喫煙していた人に「煙が他のお客さまのご迷惑になりますのでー」と注意を促すと「“禁煙”なんてどこにも書いていないじゃないか!」と逆ギレされたこともあったという。そんな裏話に私が「ホント、それは大変ですね」と相づちを打つと「だから、お店の中を変えるしかないんですよね」と小さく微笑んだ女将さん。

物理的手段の必要

その言葉通り、女将さんたちのホスピタリティをもってしても喫煙、禁煙に関わる問題を解決するのは難しく、改修工事という物理的手段をとらなければならなかったのだろう。むろん、改修工事を決めた要因は他にもあっただろうが、同じように車イス利用者のトイレ問題も人のホスピタリティだけでは全面解決されず、トイレ内部を広くしたり、手すりを付けたりするなどの物理的手段が必要になる。そう考えると、余計に「今回の改修工事でトイレも使いやすくなればいいなぁ」と思った。それは玲さんも同じだったらしく、注文を取って厨房に戻ろうとした女将さんを「1つ、聞いてもいいですか」と呼び止め、声をおどけさせて「工事で車イスでもトイレに入れるようになったら、嬉しいんですけど…」とやんわりとこちらの期待を伝えた。瞬間、女将さんは不意を突かれたようにポカンとして、返す言葉に詰まった。きっと、玲さんに思いもしなかったことを尋ねられたからかもしれない。それでも女将さんは車イスの私に視線を向けて、すぐにその意味を把握したようで「今はまだ詳しい設計が決まっていなくて、ハッキリしたことはわからないんですけど、ちょっとこれから色々相談してみますね」。その言葉に前向きな姿勢を感じとった私たちは、2人して「ぜひ、よろしくお願いします」と勢い込んだ。そして女将さんが厨房に戻った後で、私が「あの女将さんがああ言ってくれたから、期待が持てそうだね」と話すと、玲さんも「そうだね。やっぱり工事前にギリギリで今日来て、女将さんに(こちらの希望を)伝えられて良かったよ」と笑った。

“×”が差し出されて

それからおよそ1ヵ月。改修工事を終え、リニューアルオープンした数日後にさっそく 期待をふくらませて店を訪れることに。その道すがら、車イスを押していた玲さんに「トイレ、ちゃんと入りやすくなっているかなぁ?」と声を弾ませると、玲さんも「何だかドキドキするね。席に落ち着いたら、私がまっ先に(トイレの)様子を見に行って、OKだったら、両手で大きく“○”を出すよ」と返した。そして店に着くと、外観、店内双方ともにクリーム色を基調にした都会的な造りに一新されていて、一見、老舗のお蕎麦屋さんとは思えず、玲さんに「まるで都会の高級料亭みたいだね」と笑いかけた。間髪入れずに「そうだね」とうなずいた玲さんは「常連のお年寄りたちは、ちょっと嫌がるかもね」。たしかに改修工事以前にはお年寄りたちがよく使っていた畳の座敷席も消え、全席がテーブルとカウンターの席になっていた。代わりに店の中央辺りにタバコの煙を遮断するための6、7人が入る個室が設けられ、そこが喫煙席、そのほかの席が禁煙席にされていた。ただその時、どの席も満席で、またまたしばし待合席で待機することになった。その間に店内のそうした変貌ぶりを見まわし、私はあらためて「トイレも(入りやすく)変わっているといいね」と言った。すると玲さんも工事の結果をいち早く知りたかったらしく、私を待合席に残して1人で「ちょっと先に様子を見てくるね」と言ってトイレに向かった。ところがである。数分してトイレから戻ってきた玲さんと視線が合うやいなや、玲さんが顔をしかめて両手で小さく“×”を差し出した、すなわち、新しくなったトイレも車イスでは使えないということで、私もとっさに「アーッ、ア」とため息をついた。

つい、後悔

こちらの耳元でささやいた玲さんによると、それまでは男女共用で1つだったトイレが性別ごとに2つになったものの、それぞれのトイレは「前よりも狭くて、車イスではとても入れないよ」とのこと。そこまで大がかりな改修工事はバリアフリー化への格好のチャンスでもあっただけに、私は思わず「それはモッタイナイね!」とうなった。その声に、玲さんも「(トイレが)二つじゃなくて、1つのままだったら、もっとスペースが広く取れて、車イスでも入れたと思うよ。車イスのお年寄りも多いんだから“誰でもトイレ”としてそうすれば良かったのにね」と残念がった。タバコをめぐる問題に関してはかなりの費用を費やして、改修工事が行われたにも関わらず、車イス利用者を配慮したトイレにはなっていなかった。それは私たちが女将さんに要望を伝えたのが遅すぎて、実際の工事には反映できなかったからだろうか。だとしたら、禁煙、喫煙双方の立場から店側にクレームを口にしたお客さんたちのように、こちらも車イスでトイレを使えない不便さを「常日頃から、もっと声高に伝えておけば良かったのかなぁ」と思い、つい後悔してしまった。同時に、以前にも紹介したアメリカ障害者法のように、一定の強制力と資金助成の制度などを伴って、店舗のバリアフリー化を推し進める法律が日本でも早急に制定される必要性をあらためて噛みしめざるを得なかった。