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筆者プロフィール
老舗旅館へ行ける 30年来の親友で、障害のある人たちが綴った詩にメロディをつけて歌う“わたぼうしコンサート”のプロデューサーをつとめるヤスシさんから「今度、小田原の中学校でコンサートを開くので、ゲストとして来てほしい」との連絡をもらった。私自身が作詞した歌もかなりの数、歌われているわたぼうしコンサートは奈良県に事務局を置き、全国各地のボランティアなどが企画、運営して年間40回以上、開催されている。ヤスシさんによると、今回わたぼうしの存在を学校側やPTAに紹介し、コンサート開催に向けて中心的に動いたのはヤスシさんが20歳前後の頃、東京で音楽活動をしていた時に出会った友人のセヌマさんだという。当時、劇団四季に所属していたセヌマさんはヤスシさんとユニットを組んで、発足当初のわたぼうしコンサートに参加したこともあったとのこと。そのセヌマさんのお嬢さんが通う中学校の全校生徒に向けて、若い頃、自分が感銘を受けたわたぼうしのメッセージを伝えたいという思いがコンサート開催の趣旨だった。それを知って「ぜひお伺いしたいです」と返すと、ヤスシさんは「コンサートの前日は、箱根にあるセヌマさんの知り合いの高級旅館に泊まれることになったので、楽しみに来てよ」。聞けば、そこは350年以上前に創業し「源泉主義」をかかげる箱根でも屈指の老舗旅館で、料理の味も抜群とのこと。ヤスシさん曰く「普段はなかなか予約も取れないらしいけど、今は魚屋をしているセヌマさんがそこと取引をしている関係で、泊まれることになったんだよ」。その言葉になおさら胸が躍り、助手の玲さんと顔を見合わせて「これは相当、期待できそうだね」と勢い込んだ。旅館、とりわけ老舗旅館はホテルに比べ、階段や和室が多く、車イスでは動きづらいイメージが強くて敬遠しがちだったが、今回はヤスシさんをはじめ、こちらの勝手をよく知っているコンサートのメンバーに「助けてもらえるから、何があっても安心だね」と笑った玲さん。 体感を通して ただ、それぞれの仕事を休み、ボランティアで当日のステージに立つ10数人のコンサートのメンバーたちは奈良の事務局からお昼近くにマイクロバスに乗ってくるため、旅館に着くのは夜の7時過ぎになるとのことだった。そこで新宿駅からのロマンスカーの切符を買った私たちは、駅近くに自宅があるセヌマさんと小田原駅で落ち合って、彼の車で40分ほどの旅館まで案内してもらうことになった。その当日、4時過ぎに駅の改札を出ると、口ひげを生やし、がっちりとした体型のセヌマさんが「こんにちは」と声をかけ「確か、“初めまして”ですよね?」と尋ねた。私自身、わたぼうしコンサートに関わって30年以上になるが、セヌマさんの顔には見覚えがなかったので「ハイ、多分そうだと思います」と返すと「ボクがコンサートに参加していたのは、ホントに初期の初期の頃だったから、まだお会いしていなかったんですね」と微笑んだセヌマさん。そんなやりとりをしているうちに、セヌマさんの車が停めてあったロータリーに着き、助手席に座っていた彼の奥さんが「ようこそ、いらっしゃいました」と後部座席のドアを開けた。でも、その車は車高がかなり高いワンボックスカーで、玲さん1人の力では私を移乗させるのは難しそうだった。それを察知して、玲さんが一瞬「どうやって乗せようかなぁ…」と考え込むと、すかさずセヌマさんが「ボクが抱き上げましょうか」と言った。玲さんの「1人だと、大変じゃないですか」と心配する声に、セヌマさんは「松兼さんぐらいの体重なら、大丈夫だと思います」と応えた直後に、両手を私の膝の下と背中にまわして軽々とお姫様抱っこした。その瞬間「彼は、以前にもこうやって障害のある人を介助したことが何度もあるんだろうなぁ」と思った。力はあっても、コツを知らない人に抱き上げられると、その相手の恐る恐るさも伝わって少なからず恐怖感や不安を抱くものなのだが、セヌマさんにはそれを全く感じなかったのだ。だからだろう、こちらの心と体の緊張もとっさにほぐれ、安心して彼に身を預けられた。そう、そこにあったのは介助する側からされる側に体感を通して伝わった安心感だった気がする。 蓄積された経験 一方、セヌマさんと玲さんが私を座席に落ち着かせている間に、奥さんは1人で車イスを畳んで車の後ろに詰め込もうとした。それに気づいた玲さんは「ありがとうございます」と急いで手を貸そうとしたが、その場の奥さんの自発的な動きにも「ずいぶん慣れているなぁ」と思った。反面、最後尾の席に座っていた中学2年生になるお嬢さんは初対面の恥ずかしさからか、小さく会釈しただけでひと言も発しなかった。セヌマさんの運転で走り出した車中で、助手席の奥さんがそのお嬢さんを心配するように「今の子供たちは、自分の子供でも何を考えているのか、わからないことがよくあるんですよね」。それを受けて、セヌマさんも「人間関係が希薄というか、ヘタというか…そのせいで、昔に比べて“こころ”が弱くなっている気がして仕方ないんです。だから、生きることの喜怒哀楽をストレートに歌っているわたぼうしの歌を明日、子供たちに直に聴いてもらって何かを感じてほしいと思っています」。その言葉に続いて奥さんは「そうそう、明日は高校生の長男にも聴かせようと、学校を早退してコンサートに来なさいって言ってあるんです。それと私自身も子供たちにわたぼうしの色んな面を知ってもらいたくて、ステージで歌の手話をやらせてもらうんです」と声を弾ませた。 夫妻そろってのわたぼうしへの思いの深さに「そうなんですか!」と感動した私は、あらためてセヌマさんにわたぼうしとの出会いのきっかけを尋ねてみた。すると彼が劇団四季に所属していた30年以上前、若者のボランティア活動を推進する団体が企画した“アクト”という活動に参加し、コンサートの事務局がある「たんぽぽの家に1ヵ月間、住み込んでいたんです」とのこと。そう聞いて、反射的に「なるほど、だから介助の仕方を心得ているんだ」と合点がいった。当時、奈良県内の養護学校の高等部を卒業した人たちの居場所づくりを目指していたたんぽぽの家では、連日のように脳性マヒをはじめ、様々な障害を持つ人たちが出入りしていた。となれば、必然、そこに住み込んでいたセヌマさんが彼らを介助する機会も多かったはずである。私を抱き上げた時に伝わった安心感は、その時の経験がセヌマさんの体と心に蓄積されているゆえのものなのだろう。 初対面とは思えない親近感 当時を振り返って、懐かしそうにあれこれと話していたセヌマさんが「“アクト”でたんぽぽの家へ行った後に、東京にいたヤスシにもわたぼうしのことを紹介したんですけど、それが今ではあっちの方が事務局の責任者をやっているなんて、人生ってホントにわからないものですね」といって笑った。初めて知ったその事実に私自身「もしセヌマさんが紹介しなければ、ヤスシさんがわたぼうしと関わることはなく、ボクと出会うこともなかったのか」と感慨深く、再び「そうだったんですか!」と歓声を上げた。わたぼうしコンサートは、前述した養護学校の卒業生たちの居場所づくりを広く一般に広げるために始められたが、それが時とともに障害のある人たち全体の表現活動を支援するムーブメントになり、障害のあるなしに関わらず、そこに参加した人たちを不思議なほど結びつけている。セヌマさんの話は、それを改めて噛みしめるもので、初対面とは思えない親近感を覚えた。 一方、旅館の部屋に着くと、その話の流れでセヌマさん夫妻に「最初、お2人はどこで会われたんですか?」と水を向けた。すると、奥さんが照れ笑いしながら「実は私も“1年間ボランティア”に参加していたんです」。“1年間ボランティア”とは、セヌマさんが参加した“アクト”が進化したもので1年間、若者を福祉や市民運動の団体、組織に派遣する事業だった。北海道生まれの奥さんは、それに参加して都内世田谷区にあるボランティア団体に派遣され、そこでセヌマさんとも出会ったそうだ。その経緯について、セヌマさんが「ボクも、そこで障害のある人たちと一緒にダンスを踊っていたんですよ」と言うと、「そうそう、私も一緒に踊っているうちに、いつの間にか(セヌマさんに)引っかけられちゃって」と大笑い。そんなやりとりに、お嬢さんも「お父さん、こんなに太っているのに、ちゃんと踊れていたの?」と、私たちの前で初めて声を発した。それに応えて、セヌマさんは嬉しそうに「若い頃はスマートだったから、カッコ良く踊っていたんだよ!」と言って、畳の上でクルリとひと回り。その姿に「ヘェー、なかなかやるね」と微笑んだお嬢さん自身、数週間前には障害のある人たちのファッションショーにゲスト参加し、ダンスを踊ったほか、通っている中学校でも点字サークルに所属しているとのこと。どうやら、セヌマさん家族もボランティア活動を介して出会い、深く結びついているらしい。そう考えていると。奥さんが「実は私、F君と同期なんですよ!」と笑顔で勢い込んだ。F君は20数年前、奥さんと同じ1年間ボランティアでたんぽぽの家に滞在し、それ以来ずっと私とも親交があるだけに、またまた「そうだったんですか!ボクもF君のことはよく知っています」。こちらの歓声に、奥さんも「やっぱり繋がっていた、そうじゃないかって思っていたんですよ!」と結び結ばれていた縁を無邪気に喜んだ。 スタッフの人力 さて、話は少し前に戻って。セヌマさんの車で着いた老舗旅館は、山間を切り開いて建てられていた。セヌマさんが正面玄関の近くに車を停めると、私たちの荷物は奥さんとお嬢さんに持ってもらい、セヌマさんと玲さんが私を旅館の中に連れていくことに。 最初、玲さんは私を座らせようと畳んでいた車イスを開こうとしたが、それを見たセヌマさんが「入り口の所に何段かの階段があるので、ボクがこのまま抱きかかえていった方がいいと思います」と言った。そして玄関先までの4.5メートルを、45キロ前後ある私をまたお姫様抱っこして早足で一気に進んだ。その素早い動きにもやはり、かつての介助経験の豊富さを感じた。でも、そこから予約してある部屋に行くまでは20段ほどある階段を2回上らなければならなかった。事前にそれを承知していたセヌマさんは、出迎えに出た男性のスタッフに向かって「2人ぐらいでお手伝いいただけるでしょうか」と声をかけた。すると、男性スタッフは「もちろんです」と言って、もう1人の男性スタッフを呼んで、車イスの両脇についた。と同時に、玲さんに「どこを持てばよろしいですか?」と尋ね、慣れた手つきで前方にあるパイプを持って車イスを持ち上げた。その手際の良さに再び「前にも何度もやったことがあるんだろうなぁ」と感心した。セヌマさんによると、旅館は1年前に大改装されたものの、エレベーターや階段昇降機の類はいまだに付けられていないという。お年寄りをはじめ、車イスで来るお客さんも多いはずだと考えると、改装時に「付ければ良かったのに…」と残念さが胸をかすめた。が、その分、スタッフの人力によるサポート体制が整っているのかもしれない。 説得力があるメッセージ その後、しばらくしてセヌマさんは奈良から来るコンサートメンバーを出迎えるため、最寄りの高速のインターチェンジまで車を走らせた。旅館に残った私たちは、食事の部屋に移動する時間が近づくと、再度電話でフロントにサポートを頼み、階段の上で待っていた。すると、男性スタッフに身体を支えられ、手すりにつかまって階段を上がってくる片マヒのおじいさんの姿が見えた。2人の傍らには、同行者であろうもう1人のおじいさんが寄り添っていて、片マヒのおじいさんに「もう少し、もう少し」などとしきりに声援を送っていた。彼らが階段を登り切るには、10分近くかかっただろうか。その間、車イスに座って待機していた私に気づいたおじいさんは「お待たせして、すみませんでした」と会釈。こちらも笑って「どういたしまして」と返すと、今度は「あなたも頑張ってください」と言った後、サポートしてもらった男性スタッフに向かって「ありがとうございました。また、ここにこうやって来られるように頑張ります」と微笑んだ。そう聞いて、男性スタッフは即座に「ハイ、お待ちしていますので、ぜひお越しください」。その場にあふれた暖かい雰囲気に心が和んでいると、同じ男性スタッフが「お待たせしました」と後から駆けつけたもう2人の男性スタッフとともに、すぐさま私の車イスを降ろす体勢を取った。傍らでそんな一部始終を見ていたセヌマさんの奥さんは、隣にいたお嬢さんに向かって「人の力があれば、たいていのバリアは乗り越えられるのよ」と笑いかけた。それはその場の状況とそこにたまたま居あわせた人たちが具体化した、説得力があるメッセージだった気がする。だからだろう、「そうだね」と小さくうなずいたお嬢さんの目の輝きが、まぶしく映った。
30年来の親友で、障害のある人たちが綴った詩にメロディをつけて歌う“わたぼうしコンサート”のプロデューサーをつとめるヤスシさんから「今度、小田原の中学校でコンサートを開くので、ゲストとして来てほしい」との連絡をもらった。私自身が作詞した歌もかなりの数、歌われているわたぼうしコンサートは奈良県に事務局を置き、全国各地のボランティアなどが企画、運営して年間40回以上、開催されている。ヤスシさんによると、今回わたぼうしの存在を学校側やPTAに紹介し、コンサート開催に向けて中心的に動いたのはヤスシさんが20歳前後の頃、東京で音楽活動をしていた時に出会った友人のセヌマさんだという。当時、劇団四季に所属していたセヌマさんはヤスシさんとユニットを組んで、発足当初のわたぼうしコンサートに参加したこともあったとのこと。そのセヌマさんのお嬢さんが通う中学校の全校生徒に向けて、若い頃、自分が感銘を受けたわたぼうしのメッセージを伝えたいという思いがコンサート開催の趣旨だった。それを知って「ぜひお伺いしたいです」と返すと、ヤスシさんは「コンサートの前日は、箱根にあるセヌマさんの知り合いの高級旅館に泊まれることになったので、楽しみに来てよ」。聞けば、そこは350年以上前に創業し「源泉主義」をかかげる箱根でも屈指の老舗旅館で、料理の味も抜群とのこと。ヤスシさん曰く「普段はなかなか予約も取れないらしいけど、今は魚屋をしているセヌマさんがそこと取引をしている関係で、泊まれることになったんだよ」。その言葉になおさら胸が躍り、助手の玲さんと顔を見合わせて「これは相当、期待できそうだね」と勢い込んだ。旅館、とりわけ老舗旅館はホテルに比べ、階段や和室が多く、車イスでは動きづらいイメージが強くて敬遠しがちだったが、今回はヤスシさんをはじめ、こちらの勝手をよく知っているコンサートのメンバーに「助けてもらえるから、何があっても安心だね」と笑った玲さん。
ただ、それぞれの仕事を休み、ボランティアで当日のステージに立つ10数人のコンサートのメンバーたちは奈良の事務局からお昼近くにマイクロバスに乗ってくるため、旅館に着くのは夜の7時過ぎになるとのことだった。そこで新宿駅からのロマンスカーの切符を買った私たちは、駅近くに自宅があるセヌマさんと小田原駅で落ち合って、彼の車で40分ほどの旅館まで案内してもらうことになった。その当日、4時過ぎに駅の改札を出ると、口ひげを生やし、がっちりとした体型のセヌマさんが「こんにちは」と声をかけ「確か、“初めまして”ですよね?」と尋ねた。私自身、わたぼうしコンサートに関わって30年以上になるが、セヌマさんの顔には見覚えがなかったので「ハイ、多分そうだと思います」と返すと「ボクがコンサートに参加していたのは、ホントに初期の初期の頃だったから、まだお会いしていなかったんですね」と微笑んだセヌマさん。そんなやりとりをしているうちに、セヌマさんの車が停めてあったロータリーに着き、助手席に座っていた彼の奥さんが「ようこそ、いらっしゃいました」と後部座席のドアを開けた。でも、その車は車高がかなり高いワンボックスカーで、玲さん1人の力では私を移乗させるのは難しそうだった。それを察知して、玲さんが一瞬「どうやって乗せようかなぁ…」と考え込むと、すかさずセヌマさんが「ボクが抱き上げましょうか」と言った。玲さんの「1人だと、大変じゃないですか」と心配する声に、セヌマさんは「松兼さんぐらいの体重なら、大丈夫だと思います」と応えた直後に、両手を私の膝の下と背中にまわして軽々とお姫様抱っこした。その瞬間「彼は、以前にもこうやって障害のある人を介助したことが何度もあるんだろうなぁ」と思った。力はあっても、コツを知らない人に抱き上げられると、その相手の恐る恐るさも伝わって少なからず恐怖感や不安を抱くものなのだが、セヌマさんにはそれを全く感じなかったのだ。だからだろう、こちらの心と体の緊張もとっさにほぐれ、安心して彼に身を預けられた。そう、そこにあったのは介助する側からされる側に体感を通して伝わった安心感だった気がする。
一方、セヌマさんと玲さんが私を座席に落ち着かせている間に、奥さんは1人で車イスを畳んで車の後ろに詰め込もうとした。それに気づいた玲さんは「ありがとうございます」と急いで手を貸そうとしたが、その場の奥さんの自発的な動きにも「ずいぶん慣れているなぁ」と思った。反面、最後尾の席に座っていた中学2年生になるお嬢さんは初対面の恥ずかしさからか、小さく会釈しただけでひと言も発しなかった。セヌマさんの運転で走り出した車中で、助手席の奥さんがそのお嬢さんを心配するように「今の子供たちは、自分の子供でも何を考えているのか、わからないことがよくあるんですよね」。それを受けて、セヌマさんも「人間関係が希薄というか、ヘタというか…そのせいで、昔に比べて“こころ”が弱くなっている気がして仕方ないんです。だから、生きることの喜怒哀楽をストレートに歌っているわたぼうしの歌を明日、子供たちに直に聴いてもらって何かを感じてほしいと思っています」。その言葉に続いて奥さんは「そうそう、明日は高校生の長男にも聴かせようと、学校を早退してコンサートに来なさいって言ってあるんです。それと私自身も子供たちにわたぼうしの色んな面を知ってもらいたくて、ステージで歌の手話をやらせてもらうんです」と声を弾ませた。 夫妻そろってのわたぼうしへの思いの深さに「そうなんですか!」と感動した私は、あらためてセヌマさんにわたぼうしとの出会いのきっかけを尋ねてみた。すると彼が劇団四季に所属していた30年以上前、若者のボランティア活動を推進する団体が企画した“アクト”という活動に参加し、コンサートの事務局がある「たんぽぽの家に1ヵ月間、住み込んでいたんです」とのこと。そう聞いて、反射的に「なるほど、だから介助の仕方を心得ているんだ」と合点がいった。当時、奈良県内の養護学校の高等部を卒業した人たちの居場所づくりを目指していたたんぽぽの家では、連日のように脳性マヒをはじめ、様々な障害を持つ人たちが出入りしていた。となれば、必然、そこに住み込んでいたセヌマさんが彼らを介助する機会も多かったはずである。私を抱き上げた時に伝わった安心感は、その時の経験がセヌマさんの体と心に蓄積されているゆえのものなのだろう。
当時を振り返って、懐かしそうにあれこれと話していたセヌマさんが「“アクト”でたんぽぽの家へ行った後に、東京にいたヤスシにもわたぼうしのことを紹介したんですけど、それが今ではあっちの方が事務局の責任者をやっているなんて、人生ってホントにわからないものですね」といって笑った。初めて知ったその事実に私自身「もしセヌマさんが紹介しなければ、ヤスシさんがわたぼうしと関わることはなく、ボクと出会うこともなかったのか」と感慨深く、再び「そうだったんですか!」と歓声を上げた。わたぼうしコンサートは、前述した養護学校の卒業生たちの居場所づくりを広く一般に広げるために始められたが、それが時とともに障害のある人たち全体の表現活動を支援するムーブメントになり、障害のあるなしに関わらず、そこに参加した人たちを不思議なほど結びつけている。セヌマさんの話は、それを改めて噛みしめるもので、初対面とは思えない親近感を覚えた。 一方、旅館の部屋に着くと、その話の流れでセヌマさん夫妻に「最初、お2人はどこで会われたんですか?」と水を向けた。すると、奥さんが照れ笑いしながら「実は私も“1年間ボランティア”に参加していたんです」。“1年間ボランティア”とは、セヌマさんが参加した“アクト”が進化したもので1年間、若者を福祉や市民運動の団体、組織に派遣する事業だった。北海道生まれの奥さんは、それに参加して都内世田谷区にあるボランティア団体に派遣され、そこでセヌマさんとも出会ったそうだ。その経緯について、セヌマさんが「ボクも、そこで障害のある人たちと一緒にダンスを踊っていたんですよ」と言うと、「そうそう、私も一緒に踊っているうちに、いつの間にか(セヌマさんに)引っかけられちゃって」と大笑い。そんなやりとりに、お嬢さんも「お父さん、こんなに太っているのに、ちゃんと踊れていたの?」と、私たちの前で初めて声を発した。それに応えて、セヌマさんは嬉しそうに「若い頃はスマートだったから、カッコ良く踊っていたんだよ!」と言って、畳の上でクルリとひと回り。その姿に「ヘェー、なかなかやるね」と微笑んだお嬢さん自身、数週間前には障害のある人たちのファッションショーにゲスト参加し、ダンスを踊ったほか、通っている中学校でも点字サークルに所属しているとのこと。どうやら、セヌマさん家族もボランティア活動を介して出会い、深く結びついているらしい。そう考えていると。奥さんが「実は私、F君と同期なんですよ!」と笑顔で勢い込んだ。F君は20数年前、奥さんと同じ1年間ボランティアでたんぽぽの家に滞在し、それ以来ずっと私とも親交があるだけに、またまた「そうだったんですか!ボクもF君のことはよく知っています」。こちらの歓声に、奥さんも「やっぱり繋がっていた、そうじゃないかって思っていたんですよ!」と結び結ばれていた縁を無邪気に喜んだ。
さて、話は少し前に戻って。セヌマさんの車で着いた老舗旅館は、山間を切り開いて建てられていた。セヌマさんが正面玄関の近くに車を停めると、私たちの荷物は奥さんとお嬢さんに持ってもらい、セヌマさんと玲さんが私を旅館の中に連れていくことに。 最初、玲さんは私を座らせようと畳んでいた車イスを開こうとしたが、それを見たセヌマさんが「入り口の所に何段かの階段があるので、ボクがこのまま抱きかかえていった方がいいと思います」と言った。そして玄関先までの4.5メートルを、45キロ前後ある私をまたお姫様抱っこして早足で一気に進んだ。その素早い動きにもやはり、かつての介助経験の豊富さを感じた。でも、そこから予約してある部屋に行くまでは20段ほどある階段を2回上らなければならなかった。事前にそれを承知していたセヌマさんは、出迎えに出た男性のスタッフに向かって「2人ぐらいでお手伝いいただけるでしょうか」と声をかけた。すると、男性スタッフは「もちろんです」と言って、もう1人の男性スタッフを呼んで、車イスの両脇についた。と同時に、玲さんに「どこを持てばよろしいですか?」と尋ね、慣れた手つきで前方にあるパイプを持って車イスを持ち上げた。その手際の良さに再び「前にも何度もやったことがあるんだろうなぁ」と感心した。セヌマさんによると、旅館は1年前に大改装されたものの、エレベーターや階段昇降機の類はいまだに付けられていないという。お年寄りをはじめ、車イスで来るお客さんも多いはずだと考えると、改装時に「付ければ良かったのに…」と残念さが胸をかすめた。が、その分、スタッフの人力によるサポート体制が整っているのかもしれない。
その後、しばらくしてセヌマさんは奈良から来るコンサートメンバーを出迎えるため、最寄りの高速のインターチェンジまで車を走らせた。旅館に残った私たちは、食事の部屋に移動する時間が近づくと、再度電話でフロントにサポートを頼み、階段の上で待っていた。すると、男性スタッフに身体を支えられ、手すりにつかまって階段を上がってくる片マヒのおじいさんの姿が見えた。2人の傍らには、同行者であろうもう1人のおじいさんが寄り添っていて、片マヒのおじいさんに「もう少し、もう少し」などとしきりに声援を送っていた。彼らが階段を登り切るには、10分近くかかっただろうか。その間、車イスに座って待機していた私に気づいたおじいさんは「お待たせして、すみませんでした」と会釈。こちらも笑って「どういたしまして」と返すと、今度は「あなたも頑張ってください」と言った後、サポートしてもらった男性スタッフに向かって「ありがとうございました。また、ここにこうやって来られるように頑張ります」と微笑んだ。そう聞いて、男性スタッフは即座に「ハイ、お待ちしていますので、ぜひお越しください」。その場にあふれた暖かい雰囲気に心が和んでいると、同じ男性スタッフが「お待たせしました」と後から駆けつけたもう2人の男性スタッフとともに、すぐさま私の車イスを降ろす体勢を取った。傍らでそんな一部始終を見ていたセヌマさんの奥さんは、隣にいたお嬢さんに向かって「人の力があれば、たいていのバリアは乗り越えられるのよ」と笑いかけた。それはその場の状況とそこにたまたま居あわせた人たちが具体化した、説得力があるメッセージだった気がする。だからだろう、「そうだね」と小さくうなずいたお嬢さんの目の輝きが、まぶしく映った。
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