介護マガジン

ケアの達人日記

2010/07/01 Vol.93 “懐かしい人”、“見知らぬ人”

学校に行くためのノルマ

小学校から高校までの12年間、母が運転する車で通った養護学校(現在は特別支援学校)のPTAの研修会の講師として招かれた。その当日、約束の午前10時までに間に合うよう、8時半に福祉タクシーを予約した。となると、諸々の準備のために同行した助手の玲さん共々、7時ちょっと前には起きなければならなかった。
それはすっかり夜型の生活スタイルになっている身にとっては、そうとう早い起床時間で前の夜から少なからず「ちゃんと起きられるかなぁ?」と不安だった。とは言え、通学していた30年以上前は毎朝、その1時間前の6時に起きて、交通渋滞のピークを避けるため、父の出勤時間より早い7時10分過ぎには家を出ていた。それまでの時間に母は朝食や弟の登園や登校準備、私への食事介助、掃除、洗濯に加えて母自身の身支度を終えなければならなかった。いま羅列しただけでも、当時の母がいかに時間的にタイトだったかは一目同然だろう。
一方の私にも小学校1年生当初より、自力で「6時半までに着替えなさい」というノルマが課せられていた。その時間を過ぎても着替えられないと、母に「今日は休み」と言われ、実際に学校を休まれたことも何度かあった。時にはその日、母にPTAの用事があったため、私を1人家に残して、母だけが車を運転して学校に行ったことさえあった。置いてきぼりを食った私も私で、悔しくて財布を握りしめ、這って家を飛び出し、通りでタクシーを拾って学校に行こうとした。数分して、母が言うところの「のん気な父」にその様子を発見され、家に連れ戻されたのだが…。

“実戦力”になった裏技

母が私に課したノルマには、わが子に少しでも自立心とそのための能力を付けさせようとした親心が働いていた気がする。それを受けて、私も学校に行きたい一心で、一生懸命に早起きしていた半面、学年が進むに連れ、寝坊した時などはこっそり出勤準備している父(何事につけても母より私に甘かった)を呼んで、助っ人になってもらうズルさも覚えた。また、中学生になると、靴下やシャツなど、着替えに時間がかかるものは前の日の夜に着て寝るようにもなった。そうした知恵は、親元を離れて単身、大学での寮生活を始めると即、日々の“実戦力”になり、以降、私の自立生活を支える裏技になっていった。
今は加齢などによる機能低下のため、着替えもすべてケア者にお願いしているが、研修会に向かう前夜、お風呂から出た後、翌朝の時間的な余裕を若干でも増やそうと裏技を思い出して、その日のケア者に外出用の靴下とシャツをあらかじめ着せてもらった。おかげで10分以上は睡眠時間が長くなったと思うが、普段とは違う早い起床時間にやはりなかなか頭が働かず、半分寝ぼけ眼で福祉タクシーに乗り込んだ。でも、タクシーが母とともに通い慣れた懐かしい道を走っていくうちに、前述した通りの思い出が次々によみがえり、ふと「あのころは(母も私も)毎朝、よく頑張ったなぁ」という感慨に浸った。

キャリアを積み重ねて

タクシーが母校の養護学校に着くと、女性の副校長Y先生が「松兼さん、お久しぶりです」と出迎えてくれた。高校3年生を卒業して以来の再会だったが、30年以上の時を経てもY先生の童顔のなごりと声の響きは変わっておらず、とっさに私も「こちらこそ、ご無沙汰しています」と声を弾ませた。Y先生が大学から新卒として母校に赴任したのは、確か私が高校1年生の時だった。当時、Y先生の服装はそれまでの先生たちとは違い、女子大生の匂いがプンプンするオシャレなものばかりだった。加えて、教室で生徒たちを目の前にしてポップコーンを宙に放り投げ、口でキャッチするなど、その振る舞いも自由奔放だった。世代が近かったこともあって、そんなY先生はたちまち生徒たちの人気者になった。でも半面、親たちの間では先生らしくないY先生の服装や言動は「チャラチャラしすぎてる」と一様に評判が悪かった。
今回も研修会の後で、私からY先生について聞いた母は冗談交じりに「あんないい加減だった先生が、よく副校長なんかになれたわね」と言った。その時、私が「生徒たちの間では、結構人気があったんだよ」と返したように、往々にして子どもが思う「いい先生」と、親が思う「いい先生」は異なる場合もあるのだ。
そういえば、Y先生は私が部長をしていたフォークソング部の顧問でもあった。Y先生自身がそれを思い出して、「学園祭の時にコンサートを開いて、T君のピアノで松兼さんが作詞した歌をうたいましたね」と笑いかけた。T君とは私のクラスメイトで、その言葉をきっかけにY先生は次々に他のクラスメイトたちの名前も挙げ、勢い、思い出話に花が咲いた。それだけ当時、Y先生は私たち一人ひとりと密接に接していたのだろう。そして生徒たちと同様なやりとりを30年以上も積み重ねてきたことが、Y先生の副校長としてのキャリアの土台になっていると思う。
控え室での話の流れでこちらが前年度に高校3年生を卒業した生徒たちの進路を尋ねた折も、障害の種類、程度を含め、卒業生それぞれについて、顔を思い浮かべるごとくに事細かく説明した。それを聞きながら、あらためて「30年あまりのキャリアを積み重ねて、Y先生は親からも生徒からも信頼される本当に“いい先生”になったんだろうろなぁ」と思った。

苦しまぎれの生返事
  • 白髪の男性イメージ

Y先生との懐かしい話が続いていた最中、控え室のドアが開いて、70代であろう白髪の男性が「こんにちは」とお辞儀をして、中に入ってきた。その姿に、Y先生は同席していたPTAの会長さんと一緒に立ち上がって「A先生、今日はお忙しい中をお越しいただき、ありがとうございます」と挨拶した。
そこから察するに、男性は事前に渡されていた日程表にあった研修会の来賓の先生らしかった。そう思いつつ、こちらも「こんにちは」と小さく会釈すると、男性はやおら、膝の上に置いていた私の両手を軽く握り、「松兼君、ホントにお久しぶり! 何年ぶりですかね? お互い、あれからずいぶん歳を取ってしまったから、今日はあんまり昔のことには触れないようにしましょう」と親しげに笑いかけた。でも、そう言われても私には男性に対する記憶が全くなく、瞬間、口をポカーンと開けて「この人、だぁれ?」と返す言葉に詰まった。直後に、その場の動揺を隠すように「ハ イ、そうですね」と相づちを打つふりをしたものの、男性は自身の言葉とは裏腹に、次々に私の知らない昔話を持ち出してきた。そこで男性に面と向かって「どなたですか?」と尋ねるわけにもいかず、時折、苦しまぎれに「ハイ、ハイ」などと生返事をしては必死に聞き役に徹した。が、どんなに男性の話しを聞いてもいっこうに彼との思い出が浮かばず、どうにも対応に困り果てた。
研修会が始まる直前にトイレへ行くと、玲さんも男性を指して「功さん、あの人のこと、ぜんぜん覚えていないでしょ! 何を言われてもポカーンとした顔ばかりしているから、すぐにわかったよ」と声をおどけさせた。それまでのモヤモヤを見抜いてくれた彼女の指摘に、勢い込んで「ピンポーン、大当たり! あっちから親しげに話しかけられても、失礼だけど、こっちは全く見覚えがなくて、“見知らぬ人”なんだよね」と笑った。

強烈な印象

研修会冒頭での来賓の紹介によると、男性は長年、各地の養護学校で教師を続け、退職後は同じく各地の養護学校のPTA活動をサポートする役職に就いているとのこと。さらに研修会が終わった後の話を聞くと、どうやら私が小学校1年生に入学した当初、男性は母校の教壇に立っていたらしい。きっとその時、私との接点があったのだろうが、担任などの直接の関わりはなかったし、1年後にはすぐに別の養護学校へ転勤したという。加えて私の小学校1年生は、今から45年近くも以前のことである。よほど“強烈な印象”が残っていない限り、記憶から消えて“見知らぬ人”になっても不思議ではない歳月が経っている。
そうした事情を知った玲さんも「そんなに昔のことを、いちいち事細かく覚えていられないよね」と私に同調した。一方、男性の側には歳月が過ぎてもあせない私に対する“強烈な印象”が残っているということだろうか。それを裏付けるように彼曰く「障害は重かったけど、松兼君は当時から活動的で、クラスでいちばん目立っていましたものね」。
男性は私が母校の高等部から初めて国立大学に進学したことも承知していた上、大学卒業後に物書きとして綴った著作も何度となく読んでいるとのことで、「私も、松兼君が書いたもので色々勉強させてもらっていますよ」とも言った。「そうですか…ありがとうございます」と返した後、にもかかわらず、こちらは男性を最後まで思い出せないことへの申し訳なさが少なからず胸をかすめた。

10年以上前の同行訪問

歳を重ねるにつれ、あちらこちらで出会った人たちも数限りなくなり、私自身の記憶力も年々落ちてきているためだろうか。最近、同様に“見知らぬ人”から思いがけず声をかけられ、ドキリとする場面が多くなった。
先日、銀行の待合席のスペースに車イスで陣取って順番を待っている時もしかりだった。同行していた玲さんの隣に60歳前後に見える、スニーカーを履いたご婦人が座っていた。玲さんが読んでいた情報誌に私も視線を落としていた途中で、そのご婦人がこちらの様子をチラチラ伺うようにしている気配を感じた。「何かなぁ?」と気になりながらも、“見知らぬ人”とむやみに目を合わすのは失礼だと思い、意識的に顔を上げないようにしていた。
ところが数分後、彼女の方から「失礼ですけど、松兼 功さんですよね」と微笑みかけてきた。言語障害がある私に先んじて「ハイ、そうです」と応えた玲さんは、てっきり私が彼女の顔に見覚えがあると思ったのだろう。直後に、「だぁれ?」と言わんばかりに私を見て小首をかしげたものの、その時点でやはり彼女に対する記憶が全くなく、答えに窮して口をポカーンと開けるしかなかった。それを見て、玲さんもまたその場の事情を察したらしく、片手を口に当てて次の言葉をのみ込んだ。そんな私たちの動揺ぶりに、ご婦人は助け船を出すように「もう10年以上も前のことだから、覚えていらっしゃらないかもしれません。ヘルパー養成の実習で一度、お宅に同行訪問させていただいたことがあるんです」。そう聞いた瞬間、当時の大まかな状況は思い浮かべられ「アッ、そうですか!」と声を上げた。

悪いことはできない

ご婦人が口にした“お宅”とは、今の自宅マンションに引っ越してくる以前に借りていた同じ界隈の一軒家のことだった。その頃、親元を離れての私の自立生活を中心的に支えてくれていたのは(今もお世話になっている)地域の女性たちが軸になって運営しているケアグループで、そこがヘルパー資格を取得するための受け入れ先になっていたのだ。同行訪問は、利用者である私の担当のヘルパーさんがケアする様子を2日に分けて、主に見学するかたちで行われた。だからご婦人も排泄、入浴、着替え、食事といった日々、私が受けている一通りのケアの風景を目の当たりにしていたのだろう。
やおら、お酌をする手つきをして「今でも、ストローでお酒を飲まれているんですか?」と笑った。思わぬところで思わぬ質問をされ、柄にもなく恥ずかしくなって「エ、まぁ…」と照れ笑いを返すと「ホントに美味しそうに飲まれていましたものね」と続けたご婦人。
母校で出会った前述の男性と同じく、彼女にもわが家への同行訪問で私に対する“強烈な印象”が残ったらしい。玲さんがすかさず「よくご存じなんですね」と言葉をはさむと、ご婦人は「そうなんです、松兼さんのお宅にお邪魔して、とても良い勉強になりました。確か鼻でパソコンを打って作家さんのお仕事もされていましたよね」と勢い込んだ。そう聞いて、前に住んでいた借家の場所をふくめて、彼女に私のことをかなり「知られているなぁ…」とあらためて驚いた。
そう、同行訪問に限らず、人を自宅に招き行き入れてケアを受けることは、すなわち一定の個人情報をオープンにすることになるのだ。それだけに、そこにケアする側の守秘義務の必要性も出てくる。ご婦人とのやりとりの中で、実感としてそんな思いが胸をかすめた時、彼女が「お宅にお邪魔した後も、何度か通りでお見かけしたことがあるんですよ」と言った。思わず、玲さんと2人して「そうなんですか!?」と歓声を上げた一方で、内心、悪いことはできないなぁ」と思った。
同じ時分に何人もの人の同行訪問を受けていたためか、そこまで言われても失礼ながら私自身は正直、当時のご婦人の顔も印象も思い出せず、彼女は私にとって“見知らぬ人”のままだった。その“見知らぬ人”に夜な夜な、車イスで界隈の店を飲み歩いている姿を「目撃されたのでは?」と考えると、何となく世間体の悪さも感じざるを得なかったのである。