元気シニアの時代

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36年間勤め続けていた会社でマーケティング、情報調査、総務、広告法務、社内報編集その他各部署を転々とした、典型的なジプシー社員の筆者が、現在も業務委託の契約をして元気に働き続けながら、自らシニアの立場で世の中の「元気シニア」について独自の論評を展開する。

筆者プロフィール

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木村真也さん
木村 真也
(きむら しんや)

1941年(昭和16年)9月9日、疎開先の愛知県豊橋市生まれ。4〜5才の時、サッカーの「ジュビロ磐田」で有名な磐田市に移り高校まで過ごす。大学は早稲田だが行ったり行かなかったりで卒業まで5年かかる。その後フラフラしていたが食いつめ、やむなく現在の会社(広告代理店)に3ヶ月のつもりで就職。ここでも仕事は性に合わなかったが、飛び出る勇気もなく定年後の今日まで延々36年間居座り続け、現在「社内報」編集のため業務委託の契約をして平均週3日ほど出勤。
趣味の一つは健康食品。カラダにイイと言われるものは何でも試している。家族は愚妻と愛嬢、愛息の4人家族。加えて、わが愛猫フジコちゃん。

Vol.49 最終回 <“黄金の60代”の中間報告と今後>  


1. 予想外の大実績

今回で、私のエッセイの連載はこれが最終回になる。2005年の1月から今回まで3年余、37回の連載であった。  平凡な日常生活を拙い文章で綴ってきたが、読んでいただいた方には心の底から御礼申しあげたい。幸い3月から私のブログを開設するので、私のその後を覗いてみたいという方は是非とも開いていただけたらと思う。

(*アドレス http://blogs.yahoo.co.jp/kimurashinyajp

さて、改めてこの3年間の連載を顧みると、確かに平凡な日常生活を描きながらも私の気持ちは元気そのもの、まさに“元気シニアの時代”というタイトルに沿うものだったと思っている。
事実、この3年間は実績や満足において私の66年半におよぶ人生のハイライトであったと断言できる。物心ついてから悩みつつ、トボトボと歩いてきた我が人生も還暦を迎えたころから徐々に波に乗り始め、ここ3年間でぐ〜んと高いところまで来たという感覚だ。自分にとっては小躍りしたくなるような嬉しいことだから、あえてここでその実績と満足の中身をあげてみたいと思う。

*このエッセイの執筆と社内報の編集
文章を書くのは好きだから今までもいろいろ書いてきたが、これほどの量を長期間書き続けたのは初めて。エッセイは3年間37回、社内報は6年間69回の発行である。ささやかながら私の“財産”であり自信ともなっている。それから、これらの仕事によって一家4人の生活費を稼ぎ、さらに子供2人の学校を卒業させたことも私としては大きな実績だ。正直いって私はほっとしている。

*衣食住の充実
年金も61歳から入るようになって、若干ではあるが経済的余裕も出てきた。それまで溜まっていた欲望やら、やらねばやらねばと思っていた懸案事項も次から次へと解決できて良かったと思っている。老後に備える家のリフォーム、サンルームの増設、そのほかインテリアの充実など、それなりの事ができたのである。隣の住人とのトラブルの種となっていた生垣の剪定についても毎年シルバー人材センターの人の手を借りれば簡単に解決できるようになった。昨年の暮れからは生垣の下に大好きな黄千両を14鉢も植えて毎日楽しんでいる。
お洒落もリサイクルショップを中心に自分の趣味にあった“高級品”を身に着け始めた。スーパーでの食品の買い物など、ちょっと奮発して好きなものを買うことも多くなった。世の中には同じものでも、美味いものとそうでないものとの差は予想以上に大きいことを感得したのは、平凡ながら私としては新しい発見だ。

健康維持*健康生活の定着
既に足掛け3年に入った市営ジムでのエクササイズとウォーキング。メタボにならない朝食抜きのバランスの良い食事と十分な睡眠。地元の町田市がやってくれる健康診断と自己負担の人間ドックなど年2回の健康チェック。ついつい多くなる酒の量を除けば現在では、まあ理想的な生活モデルが定着したと思っている。そのためか、この2〜3年間、風邪で寝込んだこともなければ、50肩の再発を除いて病気にかかったことは無い。

*遊びと心の満足
趣味の“ぶらり一人旅”も天童、米沢、長野、石和、那須、館山などなどちょっと遠くまで足を伸ばすことが多くなった。晩年に至るまでこの調子でいけば日本列島を踏破できるんではないかなどと夢想しはじめている今日この頃である。  
もう一つの趣味である読書については、いろいろな文学作品の虜になってはきたが、最近では芸術院会員で私小説作家の故八木義徳の全集を読みふけっている。八木義徳が町田市の団地に住んでいたこともあり興味は高まるばかりだ。そんな折、町田市の文学館では今秋回顧展の準備を進めていると言う。そこで何かできるお手伝いはないか、と申し出ようと思っている次第だ。
そのほか、サッカー観戦など“不謹慎”ながら焼酎をチビチビやりながら楽しんでいる。ひいきチームの鹿島アントラーズの試合などを見るのはまことに極楽の境地である。

それから、毎日の生活では何といっても楽しみは晩酌だ。家で仕事をして夜7時半より市営のジムでエクササイズ、家に帰って一風呂浴びての一杯はちょっと比類のない楽しさである。また、仕事に直結する実績といえばパソコンでメールがそれなりに打てるようになったこと。 これは今のところ、生涯現役を決め込んでいる私には大きな武器になるし、友人、知人、あるいは見知らぬ人とのやりとりなどは、これから本格的な老年期を迎えようとするときの楽しみとして無視できないものとなろう。

このほか、自分のスケッチを書き込んだ終年式の日記は、過去のものを読む楽しさに加えて備忘録、つまりメモとしても大変役立つことが分かって自分としては悦にいっている。最後に自分史は1年ごとの自分の足取り、実績、進化、楽しみがその年の出来事とともに一覧できるので、最近、60歳以後の成果あふれるページを繰り返し見ては楽しんでいる。年とった人間にとって心の大敵は虚無感だが、毎年確実に“進化”している自分が顧みれるのは心強いことである。また、生活の知恵とか工夫とかのレベルになるとその実績は数限りないのである。

やはり、こうした成果は生活に時間と金の余裕ができたために実現できたことだと私は思っている。こうしてみれば、物心ついた頃から米軍のB29(爆撃機)の恐怖にさらされて以来、生活苦にも悩まされてきたわが少年期、精神的な悩みのオンパレードだった青春期、そして処を得ず鬱鬱たる状態であった60歳までの壮年期とそれ以降の充実した人生を対比すれば、まるで“地獄”と“極楽”ほどの差があるといってもそれほどの誇張ではないと、私には感じられる。

以上がまさしく、バラ色に輝いている我が“黄金の60代”の中間報告なのである。

2. 黄金の60代後半期

さて、66歳を半年も過ぎて70歳までのことを考える時、私が思うのは、ともかく現状の生活スタイルを続けたいと言うことである。会社がどう考えるかは別として、自分としては今の仕事を続けながら、できるかぎり人生を楽しみたいと思うのだ。

しかし、このことについては、最近多少考えるところが出てきた。かって、私はこのエッセイで「生涯現役」を宣言していたが、これは多分に自分を励ます意味合いがあったように思う。子供が卒業するまでもうちょっとの辛抱だ、我慢だという合言葉として使ったことは否定できない。そして、それは予想以上の成果を伴ってゴールがきれた。

しかし、この間の時の流れのなかで自覚したのは、自分の「体力、気力、知力」のいかんともし難い衰えである。私のように健康管理に気を使う人間であってもこれは仕方がない現象なのだ。

確かに現役を張っていれば「元気で長生き」「老後の備えも生活をエンジョイする幅も広がる」「社会との接点をもち続けて“仙人”にならなくてもすむ」しかし、理屈では分かるがアタマとカラダがついていかない。だからこのバランスが老後の生活を考える上での重要なポイントであると思うようになった。社内報を編集するために片道2時間弱電車に乗り、あれこれ仕事をこなしていくのは相当シンドク感じられるようになったのである。そのために随分苦しみもがいたこともあったが、私の得意芸とする工夫好きと、ある種の決断が功を奏して今のところ快調に仕事は進んでいる。

その一つは毎月の具体的な生活スタイルを変えたことである。まず、朝起きたらすぐ机に向かって午前中仕事をすること、昼飯を食べたら5時ごろまで寝てその後2〜3時間原稿を書くこと、こうすることによって社内報の仕事などドンドンはかどるようになったのである。

そこら当たりの心境の変化を私はやや誇張しながら2ヵ月ほど前の社内報の編集後記に「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」というタイトルで書いた。巻末に添付しておいたから、それを読んで私の喜びを感じとっていただけたらありがたい。

さらに編集という作業上、私にとってはもう一つのヒットが生まれたのである。パソコンそれは、この半月ぐらい前からメールがそれなりに打てるようになったこと。およそ、編集作業にパソコンが自由に操れないこと自体時代錯誤も甚だしいが、これが何とかやれるようになって作業効率が俄然アップしたのである。自宅作業が増えて出社の回数が減ったことはいうまでも無い。

さて、こんな具合でいろいろな面で衰えは感じつつも私の“黄金の60代”の後半はこのままいけそうである。まずはめでたし、めでたしである。

3. これからのこと<幸せ不感症の克服>

ここまでお読みいただいた方は、私が毎日毎日、幸せを十二分に実感しながら生活しているように感じられたであろう。しかし、事実はそれほどでもない。確かに60代以前と比較すればそうだが、普段の生活ではそれほどリアルな感じはしない。しかし、一体、人間と言うものは四六時中そんなに法悦の状態でいられるものなのか。

確か、かつて芥川龍之介が完全な幸福なんて普通の人間には望むべくもないとどこかに書いていたが、まあそんなものであろう。だから、そんなことを願うのは詮無いことかもしれないのである。

しかし、そうはいってもそれでも何かと思うのが、これまた人間の切ない性というものであろう。そうして人間の<幸せ不感症>というべきものを克服する道は、私の場合、我が終末の日をイメージすることなのである。いつもその日を想像しながら、さて今をどう暮らすかを考えることである。とはいっても毎日毎日そんなことを考えていられるものではない。

そこで、私がつらつら考えたことは次のことである。確かにこれらは既に書いたことだがその後うまくいっていないこと、十分実行されていない事柄が多い。新たに発想を変え、工夫を加えて再チャレンジしようと思うのだ。試行錯誤と工夫は私の性だから…。

*身辺処理
かって私は65歳になったら<一日一捨>をやることを宣言した。余分なものを整理しながら捨て去っていくことである。これを毎日実行していれば否応も無く終末の日をイメージせざるをえなくなる。これは名案だと私はそのとき思った。しかし、66をとうに過ぎてもこれは少しも進んでいない。毎日毎日仕事に追いまくられていて、そんな気持ちのゆとりが出てこないのである。完全にアイデア倒れであった。そこで夏休みとか、年末とかにしばらく整理に没頭して大いに弾みをつけて毎日の実行につなげていくことを計画中なのである。あるいは、そんな特別な時期を待っていたらダメだ。思い立ったら吉日、ほかのことを多少犠牲にしてもチャレンジしてみようとも思っている。断固そう思っている。

*自分史の完成
2〜3年前、ノート形式の自分史を購入してから、私は毎年毎年かなり詳しくその年の実績や成果を記録している。そして、時々それを見るたびに満足感と楽しさがよみがえってくるのだ。これは何かと時の流れの中に虚無感を感ずる老人の気持ちをそれなりに克服する妙薬である。だが、自分史は購入した年からの記録はしたもののそれ以前の記録はとっていない。だから、それ以前の年々自分の実績と楽しい思い出もピックアップして記録すれば、一巻にして自分の人生を肯定するものとなると思っている。今思い出して苦しさと虚しさだけが残っているような60歳以前のことも、ただそれだけのことではあるまい。人間である限り喜怒哀楽、実にさまざまなことがあったし過去の土台の上に現在があるのである。そういう肯定的な考えで自分史を完成させたい。  

*欠乏や悲惨な過去の追体験
以前にも書いたことはあるが、私は終戦後の庶民の貧しい生活ぶりを展示した九段下の昭和館や新宿の平和記念展示資料館を訪ねることが多い。そこを一巡すれば、懐かしさとともに今私が享受している生活の極楽ぶりが十分感じ取れるのだ。ろくに食べるものが無かったひもじい生活、つぎあてだらけの汚れた服、寒さにも暑さにもまるで無防備な住まい。本当に今はいい時代なんだなぁ…。平和っていいなぁと心の底から感得するのである。これからは展示場に足を運ぶのに加えて写真集の類を座右に置いて欠乏の日々を追体験したいと思っている。  

*人間の一生の回想
私は趣味のぶらり一人旅でお寺や墓地を散策することも多い。あるいは、青山とか谷中とか雑司ケ谷といった有名墓地にも足を運ぶこともある。そうした墓地には歴史に名をはせた有名人が眠っているのであるが、私はその墓石を見るたびに粛然たる思いに囚われるのである。  ああ“強者”どもの夢のあと。生きていることはいいなぁと改めて感じるのだ。 これからは私の住んでいる町および近隣の地図に、訪れたのはココとマークして訪問の弾みをつけようかとも思っている。

さて、以上が私がやろうとしている、あるいはすでにやっている“幸せ不感症”の克服なるものである。つまらぬことといえばその通りであろうが、所詮自分は自分なのだ。そこから逃れることはできない。それぞれがそれぞれの生き方で生きていくより仕方がないと思っている。 ああ、一介の庶民、木村真也老!これからも大いに生活を楽しもうではないか。

以上が“黄金の60代”の中間報告と今後の展望である。 今まで長い間、私の生活報告を読んでいただいて本当にありがとうございました。   

社内報の編集後記

<木口小平は死んでもラッパを離しませんでした。>
この言葉は日清戦争で死んだラッパ兵の有名な話である。戦前には教科書にも載っているほどだ。最後の最後までお国のために尽くした愛国者エピソードである。
この話をあるところでしたら、「木口っていう人、ずいぶん貧乏だったんだねえ」といわれて笑ってしまった。でも、考えてみれば今の人にはそんなものだろう。“明治は遠くなりにけり”である。  

硯と筆ところで、私がこんな話をするのは私自身があるラッパを吹きたいためである。“木村真也は死んでもキーボードを離しませんでした”これこそ、我が進軍ラッパなのだ。 「何だ、オマエ、ちょっと前、だんだん疲れてきたなんて弱音を吐いたばかりじゃあないか」と言われそうだが、少し生活スタイルを変えたら劇的に元気が回復したのである。

ここ1ヵ月ばかりバカっ調子なのだ。文章なんかドンドン書ける。書くことが楽しくなったのである。いや、書くことは依然として億劫であり苦痛だが、書き終わったときの満ち足りた感覚が忘れられないのである。これはもう法悦の境地だ。アダム木村はついに禁断の木の実を食べてしまったのである。もうダメだ。もうこの境地より逃れることはできない。そこでまた、“木村真也は…”と進軍ラッパが鳴り渡るのである。たとえ、この社内報の仕事が私の手から離れても私の思いは永遠に絶えることはない。

皆さーん、もし、どこかで木口小平という名前を見かけたときは、「ああ、あの木村編集長のペンネームなんだな」と思っていただきたい。と、言う訳で今回は我が元気回復のラッパを吹かせていただいた。トツテチツテター…。   (木村)


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