介護マガジン
ケアの達人日記
Vol.72 思いやりの文化度
西武新宿線の高田馬場駅からJR山手線に乗り換えるには通常、西武新宿線の2階ホームから階段を上がり、3階にある橋上連絡口を使う。西武新宿線のホームにはエレベーターがあるものの、それを使って3階に上がっても山手線の2階ホームに降りるには階段しかなく、車イスでは橋上連絡口は使えない。にもかかわらず、車イスマークが付いたトイレはその3階にある。エレベーターを使う車イス利用者の動線になっている1階と2階部分には、広いトイレを設置するスペースがないためである。
そうなると西武新宿線の駅構内でトイレに行こうとすると動線を外れて、エレベーターを使ってわざわざ3階に上がらなければならない。車イスのままで入れるトイレが「ないよりはいい」と思う反面、トイレに急いでいると、ついつい「動線に沿って造ってくれれば良かったのに…」という気持ちになる。とりわけ駅構内のエレベーターは大人4、5人で満員になる大きさで、2階ホームから乗り込もうとすると、上下の階からの先客で車イスではなかなか乗り込めない場合が多い。となると必然、トイレが切羽詰まってきて、冷や汗ものになるのが常である。
一方、車イス利用者が高田馬場駅で西武新宿線から山手線に乗り換えるには2階ホームからエレベーターで1階に下りた後、いったんビッグボックス口の改札を出て、1分前後外を歩く。そしてJR側の駅構内にふたたび入り、2基のエレベーターを乗り継いで、山手線の2階ホームに上がるのだが、それだけで通常の乗り換えより少なくとも10分近くの時間的なロスになる。西武新宿線の車イス用トイレと同様、そこには駅舎そのものの構造的な問題がもたらす不便さがある。厄介なことに、それらは一部の改修工事などでは解決されず、駅舎自体を全面的に建て替える必要が出てくるだろう。その実現には莫大な費用と時間がかかり、現実的には当面、構造的な不便さの解消は期待できそうにもない。
ただ、2年半ほど前までは高田馬場駅のJR側にはエレベーターはなく、代わりに“ エスカル”と呼ばれる車イス昇降機が設置されていた。それを利用するには毎回、インターホンで“エスカル”を操作する駅員を呼ばなければならず、今より倍以上の時間を要していた。その意味で、2基のエレベーターが新設されたことでかなりの時間短縮になり、人の手を介さないでも済むバリアフリー度はたしかに増した。
新設されたエレベーター2基のうち、1基は改札口の手前にある6、7段の階段を上り下りするためのものであり、乗降時間はたったの数秒である。それを初めて利用した時、車イスを押していた助手の玲さんが思わず「こんなに短い距離なら、(設置するにも維持するにも)お金がかかるエレベーターよりスロープにしたほうが良かったのにね」と首をひねり、私も「そうだね」とうなずいた。きっとそのエレベーターを目の当たりにすれば、私たちと同じような思いを抱く人は少なくないのではないか。転じて、なかには「費用の無駄遣い」だと批判する人もいるはずである。しかし後からインターネットなどで調べてみると、その場所にはやはり構造上の問題で付けたくても、車イス利用者がたやすく利用できる緩やかなスロープは付けられないらしい。だからといって、階段や駅員の手を必要とする“エスカル”だけのままなら、車イス利用者のバリアフリー度はいっこうに高まらない。かくしてそこに乗降時間たった数秒のエレベーターの必要性が出てくるのだ。同様な理由で最近、JR恵比寿駅の西口などにも乗車時間数秒のエレベーターが設置されるケースが増えている。それは駅舎の全面的な立て替え以外は、解消できないと思われていた構造的な不便さを取りはらう奥の手でもあるのだろう。
反面、悲しいかなぁ、人の心に棲む“構造的なバリア”を取りはらう奥の手はなかなか見つからず、愕然とさせられる場面が後を絶たない。
つい先日も高田馬場駅で西武新宿線から山手線に乗り換えようと、西武新宿線の2階ホームからエレベーターに乗り込もうとした。ところが、前述したように上下階からの先客が一杯でなかなか乗り込めず、閉まるドアを2、3度見送った。そんな折、しばらくして1階から上がってきたエレベーターには先客はなく、それを見た玲さんは「とりあえずこれに乗って、上(3階)に行っちゃおう」と言った。上の階へ向かうそのエレベーターを見送ると、3階から乗り込む人でまたまた満員になってしまう予感がしたので、スペースがあるうちに乗り込んでまず3階まで上がり、そのまま1階へ下りようとしたのだ。エレベーター前での待ち時間にしびれを切らすたびに、私たちが使う常とう作戦である。
やっとエレベーター内に乗り込め、ホッとしていると、直前にホームにすべり込んだ電車からも二十歳前後であろう若い女性1人と男性2人が同じエレベーターめがけて駆け込んできた。女性が肩から小さなビニール製のバックをかけていた以外は、3人ともこれといった荷物は持っていなかった。その姿に、思わず「こんなに元気で身軽なのに、(階段を使わずに)どうしてエレベーターに乗るんだろう?」と首をかしげた。以前、友人のシンさんに車イスを押してもらい、電車から降りてエレベーターに乗り込もうとした時も屈強な体つきの若い男性2人組が脇から割り込むようにしてエレベーター内に入ってきた。それを目前で見たシンさんは、私と視線を合わせて眉をしかめた。そして改札口の階で先にエレベーターを降りていった2人組の背中を見送たると、「元気なくせに、ああいうことをするヤツらを見ちゃうと、後ろから蹴っ飛ばしたくなるよ」と苦笑いしたシンさん。
もちろん、外見は元気そうに見えても内臓疾患などの目に見えない障害があったり、重たい荷物を持っていたり、その時の体調が悪かったりと、エレベーターを必要とするケースもあるだろう。それだけに私自身、同じような場面に出くわすたびに「何か、そうした事情があるのかも…」と一度は思いをめぐらせようとしている。しかし最近は、その回数があまりに多すぎて、シンさんと同じく、エレベーターで居あわせた人の不可解な振る舞いに即“モラルの低さ”を察知してしまう。とりわけ西武新宿線のエレベーター内で居あわせた若い3人連れには、悲しいほど決定的な“モラルの低さ”があった。
2階ホームから乗り込んだエレベーターが3階に着くと、操作パネルの前にいた3人連れのうちの男性一人が“開く”ボタンを押しながら、こちらに向かって「どうぞ」と声をかけた。自分たちが先に降りようとするのでなく、車イスの私たちを気づかうその言動に一瞬「いいところもあるじゃないか」と思った。ところが、玲さんが「このまま1階に下りるので、お先にどうぞ」と会釈を返すと、男性は連れの女性と顔を見合わせ、ニヤニヤして“閉じる”ボタンを押した。てっきり3人連れは3階で降り、橋上連絡口を使って山手線に乗り換えるものとばかり思っていたのだが、私たちと同様に上下階からの混雑を避けて、そのまま1階まで下りようとしていたのだ。それに気づいて、今度はこちらが玲さんと顔を見合わせて「あら、まぁ」と口パクした。
3階からは一人初老の男性も乗り込んで、エレベーターは満杯状態で下の階へ動きだした。途中、ふたたび2階で止まり、ドアが開くとベビーカーを押すお母さんがわが子とともに入れるスペースを探すように、中をのぞき込んだ。その姿に、玲さんは反射的に「入れるかなぁ……」といって、車イスを操作パネル側の横カベにピタリと付けた。狭いそのエレベーターでもスペースを詰め合えば、ベビーカーも車イスと同時に乗り込めることを経験していたからである。玲さんの行動のそんな意図を察知したらしく、初老の男性はベビーカーの親子に軽く会釈し、エレベーターを出て階段の方向へ向かった。
スペースを譲られたお母さんは男性の背中に「ありがとうございます」と声をかけた後、ベビーカーをエレベーター内に入れようとした。でも、若い3人連れが同乗していたため、依然として中にはベビーカーが入れるスペースはなく、親子は入り口で立ち往生。それを見て、操作パネルの前にいた男性はちょっと当惑した表情でまた、斜め奥にいた女性に視線をやった。その姿はあたかも自分ではどうしていいか分からず、女性に指示を仰ぐがごとくだった。ということは裏を返せば、彼の心にも初老の男性にならって自分たちもエレベーターを出て、親子にスペースを譲ったほうがいいのではという思いが少しは働いたのだろうか?とはいえ、彼に視線を送られた女性はかすかな笑みを浮かべて「閉めちゃえ!」と言い放った。彼女の言葉に彼もうなずいてしまい、そのまま“閉じる”ボタンを押した。私自身の目と耳を疑うほど、信じられない光景に思わず指示を送った女性の顔をにらみつけたが、彼女は鼻で笑うような表情を変えなかった。その姿にあきれ果てた一方で、車イスの私たちにはどうすることもできず、閉まっていくドア越しにエレベーターに乗れなかった親子に向かって「ごめんなさい」と小さく頭を下げるしかなかった。
1階に着くと、3人連れは何事もなかったように歓談しながら、私たちより先にエレベーターを後にした。彼らの後ろ姿に、玲さんは私の耳元で「ああいうことがよくできるよねー、どういう神経をしているんだろう?」と語気を強めた。こちらが大きくうなずいて「まったくだね」と返すと、玲さんは「あの女の子だって将来、結婚して子供を産んだら、ベビーカーを押して歩くこともあるだろうにね。その時に、居あわせた人から(若い女性自身がベビーカーの親子に対してとった言動と)同じことをされたら、どういう気持ちになるんだろう?」と首をかしげた。玲さんのその場の疑問に、私はとっさに「きっと、そういった場面を思い浮かべる想像力がないんだよ」と言った。それぞれの立場の違いを超えて、相手が直面する不便さや大変さを思いやる。それが誰もが住みやすい福祉社会の根幹をなす文化だと思うのだが、残念ながらまだまだ私たちの社会にはその文化は根付いていないようだ。それが、前述した“モラルの低さ”につながっている気がしてならない。
数日後、仕事先へ行くために東京駅から新幹線に乗ろうとした時のこと。改札口を通り、ホームにつづくエレベーターに向かうと、前方を大きなボストンバッグを持った4、5人の外国人グループが歩いていた。それを見て、エレベーターに乗れるのは「あの人たちが行ってからだなぁ」と思いきや、グループの中の一人が後方にいた私たちに気づき、仲間たちにもそれを伝えた。すると、全員でサッとエレベーターを譲ってくれ、自分たちは階段の方へ向かっていった。彼らの背中にお礼を言った直後に、高田馬場駅でのあの若い3人連れの“モラルの低さ”がフラッシュバックし、つい「どうしてこんなにも違うんだろうなぁ」とため息をついた。そこで感じた思いやりの文化度の差は、物理的なバリアフリー度以上にそれぞれの社会の住みやすさや思いやりの質を計る指標なのかもしれない。
